オペラ歌手は本番前は何を食べる?
皆様こんにちは。今回は、私がヨーロッパの劇場で仕事をしていたときに実際に見てきた、「オペラ歌手や声楽家の食事」についてシェアしたいと思います。
いくつか「思い出話」のような部分も含まれますが、舞台裏だからこそ見えるリアルな一面として、楽しんで読んでいただけたら幸いです。
「オペラ歌手」と聞くと、たくさんの肉を食べ、ワインを飲み、がっつりとした食事を摂る――そんなイメージを持つ方も多いかもしれません。体格の大きな歌手も少なくないため、なおさらそう感じるのではないでしょうか。

しかし実際の舞台裏では、本番前の食事はむしろとても繊細で、慎重です。
重たいものではなく、消化が良く、それでいてしっかりとエネルギーになるものを選ぶ必要があります。
というのも、声帯だけでなく、胃や横隔膜、体温、そしてメンタルの状態までもが、パフォーマンスに直結するからです。だからこそ、歌手たちは「何を食べるか」「何を口にしないか」に、驚くほど意識的なのです。
「オペラ歌手の本番前の食事」と聞くと、多くの方が
「乳製品はNG」「揚げ物はNG」「辛いものはNG」
といった“定番ルール”を思い浮かべるのではないでしょうか。
実際、それらは声楽の世界ではよく知られた基本原則でもあります。
声帯に粘膜を残しやすい乳製品、消化に時間がかかり横隔膜の動きを妨げる揚げ物、
胃酸逆流を誘発しやすい辛いものや刺激物——これらは、音声医学や声楽教育の分野でも共通して「避けるべきもの」として語られています。[2][3]
しかし、舞台裏に一歩足を踏み入れてみると、そこにはもう少し人間らしく、そして多様な“リアル”が広がっています。
本記事では、そうした理想論だけではなく、私自身が現場で実際に見てきた、歌手たちの「本当の食事事情」にフォーカスし、舞台の裏側を少しだけ覗いてみたいと思います。
声楽家が本番前に気をつける3つのポイント
まず大前提として、声楽家が最も意識しているのは、次の3つです。
- 喉のコンディション
- 胃腸の状態
- 体温のコントロール

この3つは互いに密接に関係しています。
喉が乾いていたり、粘ついていたりすれば声の響きは変わります。
胃が重いと横隔膜が自由に動かず、呼吸が浅くなります。
身体が冷えていると声帯の動きが鈍くなりやすくなります。[1][2]
だからこそ、食事や飲み物は「栄養」だけでなく、身体の感覚そのものに大きな影響を与えるのです。
現場メモ①:バナナ率の高さは異常レベル
これは冗談ではなく、本当に何度も、何人も見てきました。
声楽家だけでなく、多くの音楽家の楽屋、舞台袖、観客席の隅、舞台裏の廊下……どこかしらでバナナを口にしている人を見かける確率はかなり高いです。(音大のゴミ箱にもよくバナナが捨ててありました笑)

理由はとてもシンプルです。
- 消化がとにかく早い
- 胃に重くのしかからない
- 糖分とカリウムがすぐにエネルギーになる
- 片手で手軽に食べられる
まさに舞台前の「最適解」に近い果物なのだと思います。
一般的な栄養学でも、消化の良い炭水化物と適度な糖質はパフォーマンス前のエネルギー源として推奨されています。[4]
専門家の理論と現場の現実がここまで一致する食品は、そう多くありません。
バナナはまさに“王道の本番前フード”だと感じています。
(私個人は声楽の先生に「喉の状態と似ているから」と薄く切ったりんごを推されていたのはまた別の機会でお話しします。)
現場メモ②:「あたたかい飲み物派」が圧倒的多数
飲み物に関しても、傾向はかなりはっきりしています。
多くの歌手が選ぶのは、例えばこんなものです。
- 常温の水
- ハーブティー
- 白湯

共通しているのは、決して冷たくないということ。
「冷たいものは喉に良くない」とよく言われますが、それ以上に、
身体が内側から冷えることを嫌う歌手はとても多い印象です。
声は筋肉と粘膜の振動で生まれます。
その“振動体”をいかにスムーズに動かせるか。そのための「温度」は非常に大切です。
あたたかい飲み物は、喉だけでなく、心と身体をゆるやかに本番モードへと整えてくれます。[2][5]
現場メモ③:ライスワッフルという選択
もうひとつ、日本ではあまり見かけない、欧州でよく見かけるものがあります。それは「ライスワッフル」です。
それは、いわゆる「せんべい」とは違う、ポン菓子のようなお米を固めた、無味のアレです。

海外のスーパーやオーガニックショップでよく見かける、
薄くてサクッとしていて、ほとんど油分のないおやつです。
私個人としてはあまり好きではなかったですが、持ち運びのしやすさや軽い食感が人気の秘訣なのかもしれません。
- 油を使っていないので、胃にもたれにくい
- 小麦よりも軽く感じる人が多い
- それでもちゃんとエネルギー源になる
- 緊張していても食べやすい「軽さ」
派手さはありませんが、
「静かにパフォーマンスを支える炭水化物」として、とてもバランスの良い選択だと感じます。
声のための食事ガイドでも、脂質の少ない炭水化物は推奨されています。[3][4]
補足:理想的でも「定番」とは言い切れない食事——アッサリ系タンパク質
声楽家のための栄養ガイドやボイスコーチの多くは、本番当日の食事として 鶏むね肉、白身魚、豆腐などの「アッサリとしたタンパク質」を推奨しています。 これらは脂肪分が少なく、胃にもたれにくく、安定したエネルギーを供給してくれるため、 理論的には非常に理想的な食材です。
サンドイッチやお弁当のような形で、全粒パンやお米と組み合わせれば、 バランスのとれた「声楽家向けの食事」と言えるでしょう。

ただし、舞台裏の現実を考えると少し事情が変わってきます。 楽屋は必ずしも涼しいとは限らず、冷蔵保存ができないことも多く、 移動時間が長くなる場合もあります。その上、リハーサル状況によってはいつ食べれるかわからない時もあります。
特に鶏肉や魚、卵などを使った食事は、保存状況によっては食中毒のリスクが高まるため、 「理想的ではあるものの、持ち運び用の定番とは言い切れない」というのが、現場目線での正直な印象です。何より面倒もあるので実践し継続している人は少ないかなと思います。
(楽屋の冷蔵庫が約束されている場合や、日本のようにいつも身近にコンビニがあればいいのですが、、。)
そのため、本番前の軽食としては、栄養面だけでなく 「安全性」と「保存性」も重視し、よりシンプルな食品や素材そのものを選ぶ歌手が多いように感じています。 バナナやライスクラッカー(ライスワッフル)が選ばれる背景には、 こうした現実的な理由もあるのです。
理論外:コーラを飲むロシア人
一番印象的だったのが、
「元気が出るから」と言って、コーラを飲んでいたロシア人の歌手の姿でした。
声楽的な観点から見ると、コーラは
炭酸・糖分・カフェイン、とほぼ「避けるべきものの集合体」です。[3][5]
それでも彼女は、お水と並行してコーラを少しずつ飲みながら、そのあとステージへと向かっていきました。
このとき強く感じたのは、
歌手にとって、発声や技術だけでなく、精神的な安定やメンタルの状態がパフォーマンスの質に直結するということです。
どんなに理論的に完璧な食事でも、本人のメンタルが不安定であれば、本番の声は思うように出ません。
その人にとっての“安心スイッチ”であれば、
それは時に、医学的・声楽的な正解を超えてしまうことがあるのだと思います。
番外編:ミュージカルの現場
あるミュージカル俳優は、こんなルーティンを持っていました。
本番まではずっと、あたたかい飲み物だけを飲み続ける。
しかし、舞台に出る直前にだけ、冷たい飲み物を一口だけ飲むのです。
身体をずっと温めてきた状態から、最後にほんの少しだけ冷たい刺激を入れる。
それが彼/彼女にとっての「本番モードへのスイッチ」なのだと思います。(勿論衣装や照明による暑さ問題もあるとおもいますが…)
公演数の多いミュージカルは体調管理が大変なので、独自のルールを持っている人は多かったです。
これもやはり、理屈ではなく感覚の世界かもしれません。
しかし、その人にとって確かな効果を持つルーティンであれば、
それもまた、ひとつの「正解」と言えるのだと思います。
本番前の食事に「たった一つの正解」はない
専門的な見解としては、たしかに次のような“王道ルール”があります。[2][3][5]
- 乳製品はできるだけ避ける
- 揚げ物や脂っこい料理は控える
- 辛いもの・刺激物は控える
- 冷たい飲み物や炭酸飲料は控える
これらは、喉・声帯・胃腸・体温を守るという意味で、とても理にかなった指針です。
しかし実際の舞台裏では、
- バナナを食べる人
- あたたかいお茶を静かに飲む人
- ライスケーキをかじる人
- コーラで気合いを入れる人
- 最後の一口だけ、あえて冷たいものを飲む人
それぞれに、「自分だけのルーティン」が存在しています。
結局のところ、本当に大切なのは——
「自分の身体と心が、いちばん自由に歌える状態を知っていること」
なのかもしれません。
理想的なルールを知ったうえで、リハーサルや本番を通して少しずつ「自分の正解」を見つけていく。
それこそが、プロの歌手たちに共通する、“食事ルール”と言えるのではないでしょうか。
参考文献・出典
- Hartley, N. A., et al. “Systemic Hydration: Relating Science to Clinical Practice in Voice.” Journal of Voice, 2014. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC4157110/
- “Nutrition: Eating and Singing – Musician Health.” St. Olaf College Musician Health. https://wp.stolaf.edu/musician-health/nutrition-eating-and-singing/
- Tewari, S., et al. “Therapeutic diet for vocal health: A review.” 2023. (声帯・音声健康のための食事についてのレビュー論文) https://www.researchgate.net/publication/373900327_Therapeutic_diet_for_vocal_health_A_review
- Smeltzer, S. “Body Weight, Nutrition, and the Classical Singer.” University of Miami, 2017. https://scholarship.miami.edu/esploro/outputs/doctoral/Body-Weight-Nutrition-and-the-Classical-Singer/991031447658502976
- “Keeping Singers Well: Nutrition.” Chorus America. https://chorusamerica.org/singers/keeping-singers-well-nutrition


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