やはりDIVA健在──満席の会場を圧倒した存在感

目次
- はじめに
- ネトレプコと《トスカ》の歩み
- ROHへの久々の登場
- 公演前に巻き起こった賛否と抗議
- 初日の盛況と観客の反応
- 実際の舞台での歌唱・演技の評価
- 批評家の声
- まとめ
1. はじめに
2025年9月、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)でプッチーニ《トスカ》の新制作が上演されました。主演を務めたのはロシア出身のソプラノ、アンナ・ネトレプコ。彼女の久々のROH登場は、公演前からロシアによるウクライナへの軍事侵攻が原因で政治的背景をめぐって賛否両論を呼びました。それについての記事はこちら。
しかし幕が開くと、その歌唱と舞台の存在感に多くの評論家が高い評価を寄せています。

2. ネトレプコと《トスカ》の歩み
アンナ・ネトレプコは、2000年代以降に世界的なソプラノとして名声を確立し、《トスカ》もその主要なレパートリーとして数々の舞台で演じてきました。ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座など、世界の名だたる歌劇場で披露した彼女のトスカは「ドラマティックで官能的」「舞台を支配する圧倒的存在感」と評され、情熱的な表現力と声の豊かさで観客を魅了してきました。特に2010年代前半には、声の輝きと表現力の両立が絶頂期にあったと多くの批評家が指摘しています。
一方で近年は、年齢を重ねるなかで声質に変化が見られるとの声もあります。高音域の伸びや透明感にかつてほどの安定感がないと評されることもあり、「情熱的だが声に粗さが出る」「以前ほどの美声ではないが、演技力とドラマ性が補って余りある」といった批評が増えてきました。こうした変化は、彼女のトスカ像を「若々しい声の輝き」から「成熟した女性の激情と深み」へと進化させるものとして受け止められることもあり、その解釈の幅広さが今なお注目を集めています。

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3. ROHへの久々の登場
ネトレプコがROHに出演するのは、2019年のヴェルディ《運命の力》以来、約6年ぶりのことです。演出はオリヴァー・メアーズ、指揮はROH総音楽監督ヤクブ・フルシャ。舞台は第1幕がムッソリーニ時代のローマ、第2・3幕は現代的な政治的抑圧を暗示する設定に置き換えられました。
4. 公演前に巻き起こった賛否と抗議
開幕前後には、劇場前でウクライナ支持者や人権団体による抗議デモが行われました。参加者は横断幕やプラカードを掲げ、ネトレプコの起用に対して「プーチンのディーヴァを舞台に立たせるべきではない」と声を上げました。デモではウクライナ国旗や「Blood on her hands(彼女の手は血に染まっている)」と書かれた標語が見られ、ロイヤル・オペラ・ハウスの決定に抗議する強いメッセージが発せられました。
ネトレプコは過去にロシア政府から文化勲章を受け、ウラジーミル・プーチン大統領と距離の近い存在と見られてきました。2022年のウクライナ侵攻以降、その政治的立場をめぐって彼女は欧米の主要歌劇場から出演を取り消され、一時的に国際舞台から姿を消した経緯があります。その後、彼女自身は戦争を支持していないと表明しましたが、完全に疑念が払拭されたわけではなく、今回のROH登場も大きな論争を呼ぶこととなりました。
一方で、芸術と政治は切り離すべきだとする声も少なくありません。劇場側は「芸術的な観点から出演を認める」との立場を明確にし、観客の多くも彼女の歌唱と舞台表現そのものに注目する姿勢を見せました。こうして、外の抗議と劇場内の喝采という対照的な光景が、今回の公演の大きな特徴となったのです。

5. 初日の盛況と観客の反応
抗議が劇場の外で行われる一方、ネトレプコ主演の初日公演は全席完売となり、その後の彼女の出演日もすべて「SOLD OUT」の表示が出る盛況ぶりでした。会場に入った観客は開幕前から熱気を帯び、期待と緊張が入り混じる雰囲気が漂っていたと報じられています。
幕が上がると、客席からは大きな拍手と歓声が沸き起こり、その反応は幕間を経ても冷めることなく続きました。とりわけ第2幕のアリア〈歌に生き、愛に生き〉の後には、長く力強いBrava(ブラーヴァ)の声が劇場に響き渡り、ネトレプコの存在感を改めて印象づけました。
批評家も「観客から嵐のような喝采が送られた」「舞台が終わる頃には、論争ではなく音楽が全てを支配していた」と評しています。劇場外の抗議と、満席の観客による熱狂的な支持。この二つの対照的な光景は、今回の《トスカ》が社会的議論を超え、芸術そのものの力で観客を惹きつけたことを示していました。
6. 実際の舞台での歌唱・演技の評価
多くの批評家は彼女のトスカを「情熱的」「劇的」「舞台を支配する存在感」と評価しました。特に第2幕のアリア〈歌に生き、愛に生き〉では、か弱い弱声から絶望に満ちた叫びへと至る表現が観客を圧倒しました。
一方で、「高音域の響きに硬さがある」「以前ほどの透明感は失われつつある」といった指摘もあり、声の変化は批評家の共通認識となっています。

7. 批評家の声
専門誌、批評家は以下のように述べています。
ガーディアン紙
『彼女のトスカは感情に満ち、情熱的で生き生きとしていた。声は時に硬く、時にリードのようにざらつく場面もあったが、特に第2幕の〈歌に生き、愛に生き〉では強いカリスマ性を発揮していた。』
ロンドン・シアター誌
『ネトレプコは揺れ動くカリスマ性と艶やかな歌唱を披露した。〈歌に生き、愛に生き〉では、か細い柔らかさから激しい決然さへと自在に変化し、観客を引き込んだ。』
スリップディスク(アラステア・マカーレイ評)
『声にはいくらかの荒さが見えるものの、彼女のトスカは長年この役を歌い続けてきた経験の深みを備え、依然として圧倒的な存在感を示していた。』
バッハトラック
『フルシャの指揮は精緻でやや抑制的であり、プッチーニの楽譜の色彩を際立たせた。ネトレプコのトスカは以前ほどの輝きはない部分もあったが、その劇的な迫力は観客を圧倒した。』
8. まとめ
歌声にはかつての透明感や安定感からの変化が見られる一方で、彼女ならではの表現力と舞台を支配する存在感は依然として圧倒的であり、トスカという役柄を通じて観客に強烈な印象を残しました。その姿は、作品の新制作を特別なものへと押し上げ、批評家からも高い評価を受けています。
同時に、劇場外ではウクライナ侵攻を背景とした抗議が行われ、出演をめぐる議論が続きました。政治的立場を問われるアーティストの存在が公演自体に影を落としたことは否定できません。しかし、それにもかかわらず劇場内では満席の観客が喝采を送り、音楽と舞台芸術の力が議論を凌駕する瞬間が生まれました。
この公演は「芸術は政治から切り離せるのか」という問いを改めて突きつけました。ネトレプコのトスカは、その是非をめぐる論争を内包しつつも、観客にとっては音楽そのものの力を実感させる舞台となったのです。
公演詳細
- 演目:プッチーニ《トスカ》新制作
- 会場:ロイヤル・オペラ・ハウス(ロンドン)
- 公演期間:2025年9月〜10月7日
- 演出:オリヴァー・メアーズ
- 指揮:ヤクブ・フルシャ
- 出演:
・トスカ:アンナ・ネトレプコ
・カヴァラドッシ:フレディ・デ・トマッソ
・スカルピア:ジェラルド・フィンリ
参照リンク
- The Guardian – Review of Tosca at ROH
- Bachtrack – Tosca Review (ROH, Sept 2025)
- London Theatre – Tosca at the Royal Opera House Review
- Slippedisc – Alastair Macaulay reviews Anna Netrebko at Covent Garden
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